成功を心に誓い 2

それにしても友人の棹影が結核にかかり、いよいよ死ぬという段になってふともらすことばは、同時に小説を通して、犀星が母にたずねた最初のことばではなかったかという気がするのです。


「僕だって愛されていると思うが、なぜか信じられなくなってね」。


作家の号にも、それぞれに由来があっておもしろいものです。


たとえば鏡花は「鏡花水月」(美しいがそれを手中にすることはできない)の比喩を略しています。


秋声は、多分発句を作っていた時に、といっていますから、季題「秋の声・秋声」(秋の気を知らせる声音)からつけたもの。


犀星の場合は、既に、金沢出身で詩人として名の高かった国府犀東(昭和25年、77歳没)にならい、わが家は犀川の西に在り、の意を通わせたものといわれています。


しかしまた、明日に賭ける青年らしいその夢を「星」に託したものでもあったでしょう。


成功を心に誓い

明治の金沢を舞台に文学少年「私」の性に悩みながらも将来にかける夢・・・


そして短い生涯を閉じた友人表棹影(実名・犀星の文学仲間)のラブロマンスを、きわめて詩的なタッチで描きあげたものです。


「この犀川の上流は、大日山という白山の峰つづきで、水は四季ともに澄み透って、瀬にはことに美しい音があるといわれていた。


私は手桶を澄んだ瀬につき込んで、いつも、朝の一番水を汲むのであった」


「汲んでしまってからも、新しい見事な水がどんどん流れているのを見ると、いま汲んだ分よりももっと綺麗な水が流れているように思って、私は神経質にいくたびも汲みかえたりした」。


この澄み透り、しかも上流には県境の山々の峰をひかえて、いかにも大河の廊獄を示す犀川、改めて、孤独になりたい時はひとりこの河原に立ったという犀星の心が痛いほど分かるようです。

しかし主人公の少年は、その孤独な心をすべて詩作に向け「どうかして偉くならなければならない」と心に誓います。

犀星の自己形成のあと

犀星は、先の『杏っ子』の中でこうも書いています。


「小説家平山平四郎がいくらじたばた腕いても、その母をもう見ることが出来ないのである。


ただ、このような物語を書いているあいだだけ、お会いすることが出来ていた。


弥左衛門の言いぐさではないが、遂に砥な者にはならなかったけれど、物語をつづるということで、生ける母親に会うことのできるのは、これは有難いことと言わざるをえない、有難いことのなかの特に光った有難さなのである」。


犀星が、いよいよ文学でと意を決し上京したのは明治43年、21の時でした。


それから10年近く、金沢へ帰ってくれば、金にもならん詩なんか書きおって、あんな男はゴロツキとおんなじゃないけ、そういう意味で「詩ゴロ」とさげすまれもしました。


しかしそれでも詩を書きつづけ、『愛の詩集』『好情小曲集』(大正7年/29歳)、この2冊によって文壇にデビュー。


翌年にはさらに『幼年時代』『性に眼覚める頃』を書いて、小説家としても世間の注目を浴びるに至ったのです。


この2つの小説は、さらに「或る少女の死まで」(大正8年)を加え、しばしば初期三部作とも呼ばれて、犀星の自己形成のあとを、その幼年期から青年期に至るまで、克明にたどることのできるものです。


中でも『性に眼覚める頃』は最も人気があり、再三映画やテレビにもなっています。

生母との別れ

室生犀星(昭和37年没、72歳)は明治22年、元加賀藩に仕えた老武士と、その家に奉公するお手伝いの女性との間に生まれたいわゆる私生児です。


生まれてまもなく、近くの雨宝院にもらわれて行き、血のつながらない兄と姉、妹にまじって淋しい思いをしました。


そこへ実父の死がもたらされ、さらには理不尽にも生母との生き別れを体験します。


先の引用は、その時のことを述べた小説の一節です。


したがって、犀星の母に対する思いには、生涯きわめて屈折した複雑なものがあったと思われます。


いかなる事情がそこにはあったにせよ、二度までも、みずからの母によって捨てられたのです。


「夏の日の匹婦の腹に生まれけり」(昭和18年『犀星発句集』所収)という、この晩年に詠まれた句は、その間の口にしがたい胸のつかえを赤裸々に語ってはいないでしょうか。


いっそ憎みたいと思いながら、しかしどうしてもそうすることができない、それどころか黙っで姿を消していった母の背中を思い浮かべ、そのどこのだれともわからない女の、どうしようもないあわれさにむしろより深い愛を感じてしまう・・・。


私には、そんな犀星が思い浮かんできて仕方がないのです。

孤独いやした流れ

こんにちは。


今日は、室生犀星『性に眼覚める頃』を紹介したいと思います。

「雪が車の幌の上につもり、ほんの僅かな間に油紙の上を辻って落ちた。


お春は平四郎を迎えに遣り、黙って一等先の葬列に加わった。


かえると、平四郎はまた青年の家に戻って行った。


記憶としては雪がさかんにふっていたことと、車の幌のずっと奥に、非常に小さく、また非常に高いところに母の顔が見えていたことだ。


それは彼女の膝の上から無理に顔を押し柾て、あおぐようにしてやっと見られた母の顔であった。


これが往年にやっと小説家になれた、平山平四郎の母親を見た一等おしまいのものだった。


三十六、七であったろうか」(昭和30~31年『杏っ子』)。

冷厳な自己凝視

あけましておめでとうございます。


今年もよろしくお願いします。


さて、話は前回の続きです。


前回、秋声の冷厳なる自己凝視についての話を書きました。


こうして彼は、いつかじっくりと自分の目でもってすべてを見極めるということを知りました。


かつまたそれを、何の飾りもなく無造作に投げ出してゆくという、自然主義文学独特の、あのきびしいスタイルを完成させていったのです。

「ふりむかば涙こぼさぬ君故につれなくわれの別れこしかば」。


この一首を残して、竹久夢二と別れたばかりの山田順子が、妻を亡くしてまもない秋声を訪れ、やがて同棲を始めたのは、彼が55歳(大正15年)の時です。


当然、秋声老いらくの恋として大変な騒ぎとなり、一時は結婚まで取りざたされたことは有名です。


しかし結局は壊れ、「町の踊り場」(昭和8年)で奇跡的にカムバックするまでの、長い創作不振の一因ともなっています。


したがってまた、ここには老人の孤独、さらには性の問題が深く隠されているように思われます。


冷厳な自己凝視

士族の出だとはいっても、秋声の場合は、明治維新により急激に没落した家の、しかもその後添いの腹に生まれるという、きわめて複雑な幼年時代を送っています。


だから少年のころ、ひとりになるためにしばしば登ったのが卯辰山(向山)であったと書いています。


「其の山は飛騨境の空に聾え立った中央山脈の余勢の窮まるところの末葉山脈が、なだらかに裾をひいた其の一端に当るもので、春秋の町の人達のピクニックに恰好の場所であった。


生長してから、孤独になりたい気持の動く時など、等はよく本を懐うにして、時には登り口をもっと奥の方の春日山口のいくらか瞼しい方へかえたりして駈け登り、谷から聞えて来る薪割りの斧の音と、時雨のような松の枝葉の風の音を耳にしながら、草のうへに脚を投げ出していたものだが、小学生時代にも、この山は自分の庭のように行きつけになっていた」。

ちなみに主人公の名は「向山等」です。


秋声は、聖その小さいころから「自分の庭」のように親しんできた卯辰山に、何か特別の思いを持ち続けていたのに違いないでしょう。


だからその主人公のネーミングにも、卯辰山の別の名「向山」を選んだのです。


特別の、とは一体何を意味するのでしょうか。


それは、彼の文学を指して、しばしばその冷厳なる自己凝視という、その自己凝視に関連していることはいうまでもありません。

士族の放浪生活

秋声が士族の出であることを改めて痛感したのは、晩年の自伝小説「光を追うて」(昭和13年)を読んだ時のことです。


体の弱かった主人公が、いつか学校を怠ける癖がつき、それを見とがめられた時のことを、秋声は次のように書いています。


「或る朝等は到頭母に捕まってしまった。


その朝も母の目を避けるようにして、彼は座敷の机の側にぐずぐずしていた。


母は等を小腋に抱き疎めて、冷たい台所の井戸の縁までもって行った。


そして深い底を覗かせるようにして脅した。


『お前のような子をもって、お母さんが恥かしい。さあ学校が厭なら一緒に死のう』」


別のところで「壮年の頃の父や母の躾」は「峻厳」そのものであったと書かれていますが、それにしても何ともすさまじい母の姿です。


やはりこの背後には、武家のというか徹底した儒教的倫理といったものが窺えます。


「光を追うて」は、秋声の幼時から青年時代にわたる、その長い市井人としての放浪の生活を描いたものですが、明治44年(41歳)、夏目漱石の推薦によって東京の新聞に「黴」を掲載、この一作によって文壇に確たる自然主義作家としての地位を獲得。


その間の苦渋に満ちた人生が余すところなく書かれています。

親しみと厳しさと

今日紹介するのは、徳田秋声の『光を追うて』。

徳田秋声(昭和18年没、71歳)は、明治4年、鏡花よりも2年早く、浅野川天神橋からそう遠くない横山町二番丁(現在の5丁目)に生まれています。


しかしその後、居所を転々と変え、後年、その小説「初冬の気分」(大正12年)において、自分に、郷里の伝統的なものが身につかなかったのは、この度重なる一家の移転にあったと、彼は書いています。

その点、鏡花とはかなり違ったものが、秋声の文学には考えられるわけです。


その最たる相違は、鏡花のように町人ではなく、秋声が、代々加賀藩に仕える士族、侍の血を深く受け継いで生まれてきたことにあったと思われます。


「書を読まざること三日、面に垢を生ずとか昔しの聖は言つたが、読めば読むほど垢のたまることもある体験が人間に取つて何よりの修養だと云ふことも言はれるがこれも当てにならない


むしろ書物や体験を絶えず片端から切払ひ切払ひするところに人の真実が研かれる」(昭和3年/改造社版『徳田秋声集』)。


とくに「むしろ書物や体験を」「片端から切払ひ切払ひ」というあたりを読んで感じられる気合、そのすごいとしかいいようのない切迫感は、到底町人の血につながるものではありません。

新派の十八番に 2

翌28年には、早くも劇化されて人気を博しました。


「滝の白糸」という外題はこの時につけられたものですが、やがて新派十八番の一つとなって、今日までくりかえし上演されています。


それにしても、徹底した自己犠牲、その無償の愛を貫く彼女は、鏡花がその作品に描いた最初の理想の女性であったということができるでしょう。


泉鏡花文学賞(昭和48年制定)に加え、平成2年からフードピアの名物として、新たに鏡花映画祭がもたれるようになり、ますます、鏡花ブームの過激さというか、その異常ともいえる現象に驚いています。


そこで改めて、金沢を舞台にした鏡花の小説から読み直してみようと思い、次は、そのいくつかを選び出してみたものです。


「義血侠血4「照葉狂言」「化鳥」「薬草取」(以上明治期)、「由縁の女」「夫人利生記」(以上大正期)、「卵塔場の天女」「縷紅新草」(以上昭和期)。

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